富士市は東海道五十三次のうち、14番目の宿場として吉原宿があり、江戸時代の往来は活発で多くの商人、旅人で賑わった。1639年の高潮によって壊滅的な被害を受け、吉原宿は内陸側に移動し、現在の依田原新田付近に移転したが、その41年後、1680年の高潮によりまたも壊滅的な被害を受けて、現在の吉原本町(吉原商店街)エリアに移転した。

街道の湾曲ぶりは当時の駿河国富士郡絵図を参照すると明確で、今井村あたりから曲がり始め、鈴川村を経て一気に北上している様子が見て取れる。吉原宿が、大宮町(富士宮市)の富士山本宮浅間神社(現在は富士山本宮浅間大社)を経て甲州に抜ける道、富士登山道、村山浅間神社への登山道など、重要な拠点、ハブとして機能していた。

ただし、富士山本宮浅間大社を参詣する際に、西からのアクセスの場合吉原宿ではなく、15番目の宿場・蒲原宿を経て柚木村近辺を北上し、岩本村や山本村を経て、黒田村経由で大宮入りしたほうが最短のため、こちらの街道も多く使われた。岩本村には日蓮宗の日蓮上人ゆかりの実相寺(實相寺)もあったことから、こちらも参詣者が多かったようである。

駿河国富士郡絵図 より

吉原宿の主な史跡(東から順)

  • 東木戸跡(市河たばこ店西側)・・・文字通り吉原宿の東の出入り口
  • 脇本陣 野口祖右衛門家跡
  • 明治天皇 御小休所碑(高砂館跡)
  • 下本陣 長谷川八郎兵衛家跡
  • 脇本陣 四ツ目屋 杉山平左衛門家跡
  • 脇本陣 扇屋 鈴木伊兵衛家跡
  • 問屋場跡
  • 脇本陣 銭屋 矢部清兵衛家跡
  • 上本陣 神尾六左衛門家跡
  • 旅籠屋 鯛屋與三郎跡・・・創業天和2年(1682年)。明治時代は清水次郎長や山岡鉄舟も常宿にしており、山岡鉄舟自筆の札が残されている。その後、太平洋戦争時に旅館は壊され更地になってしまい、宿主も県外に疎開したことから当時をしのぶ物品の大半を処分してしまったという。戦後、現代建築で再建され、鯛屋旅館となりビジネスホテルとして現在も営業している。また、わずかに残る当時の宿札を旅館内に展示している。
  • 西木戸跡(桝屋酒店横)※富士山村山道起点・・・文字通り吉原宿の西の出入り口

本陣とは何か

本陣(ほんじん)は江戸時代以降の宿場で、身分が高い者が泊まる建物。平均的なサイズ建物床面積が200坪くらいである。

大名や旗本、幕府役人、勅使、宮門跡(寺社の住職など)らが利用した。「大旅籠屋」(おおはたごや)と呼ばれ、原則として一般の者を泊めることは許されていなかった。宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅が指定されることが多く、参勤交代の始まった1635年(寛永12年)頃から整備されていったと言われている。

吉原宿で言えば、上記の上本陣と下本陣がそれにあたり、神尾家と長谷川家がそれぞれ、本陣として指定され利用されていた。

基本的に本陣は完全予約制で、一組様限定であった為、宿泊頻度(人気)の高い宿場では本陣が1つでは足りず、複数指定される事がある一方、前後の宿場間が短い場合には本陣が置かれない場合もあった。東海道吉原宿は上本陣と下本陣の2つが指定された。それでも泊まれない場合脇本陣に泊まったり、下級武士などは一般の旅籠に泊まったりした。

本陣に多くの人が泊まれば、それぞれの家は大きく儲かったのではないか、と想像される事も少なくない。確かに、通常の宿から比べたら非常に大口の収入源であることは間違いないが、現実はそんなに甘くなく、宿泊団体御一行様から謝礼が支払われる程度であった。現代で言う一般的な宿泊代、ホテル代等とは異なり、あくまで「お礼」であるため、かかる経費にも満たない金額であったこともあったようで、本陣に指定されたがゆえに没落していった地方の名士(元名士というべきか)も少なくなかった。

参勤交代は各藩にとって多大な出費を強いられるため、特に江戸から遠い大名ほど費用負担が大きく、財政難の藩からは謝礼が減る一方で江戸時代後期などは非常に苦しい本陣経営を強いられていた可能性もある。さらには、江戸時代の参勤交代は、当然ながら現代のような安全な旅行は担保されておらず、台風や水害などの天災、山河を越えたり渡ったりする際の事故、盗賊・山賊・刺客の襲撃など、大名側の旅程で大きなトラブルがあると、宿泊キャンセルになったり日程がずれて他の大名とスケジュールが重なってしまう事もあったようである。そのため、本陣やサブ的位置づけの脇本陣などは、何かとキャンセル料問題や日程リスケジュールでトラブルも耐えなかったようである。

本陣を構えることは、利益が無くとも十分受け入れられる日常の財政基盤があってこそ実現できる、各宿場町を仕切る名士にとっての「名誉職」であったとも言える。歴史をたどると、神尾家も長谷川家ともに、1600年代後半から江戸末期まで名前が残っているため、両家はそれなりにタフに200年以上家名と本陣を守ってきたことになる。

上本陣 神尾六左衛門家跡

■土地面積 630坪(2,083㎡) 建物床面積 204坪(674㎡)

明治以降は、神尾六左衛門宅の一部を利用して、1872年(明治5年)に、富士市吉原小学校の前身である私塾「仰成舎」が開かれた。神尾氏自身が漢学に優れており自らが指導にあたった他、英学、算術を主とした。なお、生徒が収容しきれず、翌年1873年には近所の旧問屋場を改修して校舎として移転、公立の小学校となった。

下本陣 長谷川八郎兵衛家跡

■土地面積 570坪(1,884㎡) 建物床面積 259.5坪(858㎡)

脇本陣とは何か

本陣に次ぐ格式の宿としての脇本陣があり、基本は本陣に準ずる。本陣に止まりきれない時の予備として使われるケースと、復数の藩の行程がかぶった際に格式の低い藩が利用するケースもあった。本陣と異なり、大名や勅使の利用が無いときは一般人も利用が可能だった。この脇本陣も、やはり地元では有力者の邸宅が利用された。

吉原宿では矢部家、鈴木家、野口家、杉山家などが脇本陣となっていた。

脇本陣 扇屋 鈴木伊兵衛家跡

当時の資料が残っている脇本陣である。図面を見ても、脇本陣とはいえ、本陣に見劣りしない立派なレイアウト、そして部屋数で多くの人が泊まれるようになっていたことが見て取れる。

吉原宿脇本陣鈴木家屋敷絵図 嘉永2巳酉夏より引用 旧吉永村役場文書より

東海道吉原宿にあった旅籠屋

吉原宿にあった旅籠屋の名称で判明している限り。(調査中)

  • 旅籠屋 鯛屋與三郎(現:鯛屋旅館)
  • 旅籠屋 江戸屋
  • 旅籠屋 柏成屋
  • 旅籠屋 梅屋